イタリア映画界の巨匠エルマンノ・オルミ監督の最後の長編劇映画

ポー川のひかり 感想

人生の豊かさとは何か!!

2006年イタリア映画 ポー川のひかり 感想抜粋

感想1

古文書を釘で打った場面はポー川の流れをあらわしていたのかな〜って思ったのですが。
どうでしょうか?
教授が言いたかったことは規律、宗教、伝統への反発だったのではないでしょうか?
そういう手でつかめないものばかり大切にしないでこうして血が通ってる温かいものを大切にする事のほうが大切なんだと言ってるように私にはおもえました。
少し難しい事も考えながらも私は画面いっぱいに広がるポー川の空や、緑、朝の太陽の光が水面にきらきらする輝き、またそこで流れる音楽に心地よくなってもいました。
そこで暮らす人々との交流もなんだかのどかですてきでした。
こんなにヨーロッパを感じれた作品って初めてかもしれません。
心地良い作品ってこういう作品だと思いました。

感想2

ゆったりと時間を過ごした気分で、なんとも言えない心地よさを味わってます。
ただこれディープなマイナーものでして、一般的にはおすすめしません。
そこにあるボローニャ大学はヨーロッパ最古の大学であり、中世のころからヨーロッパの英知の中心地ですから、もちろんイタリアで最も尊敬され、活動も盛んな大学でもあります。
主人公はそこの、しかも”将来を嘱望される若き哲学教授”。
・・ということはヨーロッパの中でも、世界でも最高のポストにいるといってもいいかもしれません。 そのうえイケメンで乗ってるのはBMWのカブリオレなんですから女子学生にモテモテなのもわかります。それなのに、クルマもキーもジャケットまでも捨てて、住みついたのはポー川沿いの廃屋。
まったく一体彼はどうしようとしてるのでしょう。
その前に描かれるのがボローニャ大学の図書館で起きたのが本の惨殺事件。
このシーンは確かに人が殺されてるようでもあり、また何か芸術的な美しさもありました。
この小さなコミュニティにはなんだか大切なものがぎっしり詰まってる感じ。
パン屋のお姉さんが毎朝、パンや食糧を新聞のように配達するのですが、これってみんなの安否を確かめる役割りでもあるのですよね。
昼間はみんなで木陰でポーカー?し、夜はダンスパーティーっていうか盆踊りに近いようなものを楽しみます。
最初は突然現れた教授をいぶかしんでいたけれどそのうちその廃屋修復のためにボランティアする彼ら。
それは手伝うというよりも自分たちのためであり、教授と話すことで彼らは浄化されていったのでした。
3時間もクルマを飛ばせば最先端の都市、ミラノです、でも一見この文明から隔離されたような生活に実は哲学教授が求めていた”真の生活”があったのでした。
そのころ起こったのが、その村人たちへの強制退去の知らせ。
ポー川はみんなのものなのに、国有地という名目で追い出そうとするのですね。
このことと、教授が逃れてきたものととの間に共通点が感じられました。
つまり国や宗教、規律といったものへの反抗とでもいうものを描きたかったのかもしれません。
全編、とにかく素晴らしい映像美。
そよそよと吹く風、空が広くて、川は悠々と流れ・・
そこにたまに現れるのが電飾のついた遊覧船。
特に夕暮れ時から、夜にかけての美しさは忘れられません。
動機から結論まで一切語られないので、見る人それぞれが自分なりに解釈する作品です。
でもだからこそ心に残るものも大きくて、何十年経っても忘れられない作品となることでしょう。

感想3

親愛なる読者諸君を煙にまく気は毛頭ないが、この作品は見るべきであると同時に、見なくても良い。見るべきだと言ったのは、この映画が正しいことを伝えようとしているからで、見なくても良いと言ったのはその正しさがありきたりで、教科書的だから。まあ、人生に教科書があるとしての話だけれど。
一生をなにかに捧(ささ)げた人が、ふと足を止めてあたりを見まわす。そのとき自分が空っぽだということに気づき、愕然(がくぜん)としてしまう。そう、この作品は中年の危機を描いている。だから当の中年や、かつての危機をもう笑い飛ばせるような人たちにとっては、とくに目新しいものはない。じゃあ、若者が見ればいいのかというと、そうも言い切れない。映画や本や音楽には、出合うべきタイミングがある。このタイミングを逸してしまうと、せっかくのメッセージが右から左へと素通りしてしまう。
だけど、若者よ、心の危機はだれにでも訪れる。そのときに救ってくれるのは、それまでなんの接点もなかった人たちかもしれない。多くは語るまい。ここまで読んで、自分は見ておくべきだと直感した人は、見ておくといい。ずっとあとになってから、この静かな作品のやさしさが効いてくるかもしれない。

感想4

警察に拘束された後、古文書研究にすべてをかける恩師の司教と対面したとき、哲学教授は激しく叫ぶ。「あなたが、愛しているのは人間ではない。書物なのだ」。このことばは、オルミ監督が、この作品に込めた意味のすべてを語っているように思える。
病める時代に、原点回帰のメッセージを聖書を通して描いたこの作品、日本ではどのように受け止められるか。

感想5

突然現れた、身元も分からない"キリストさん"を温かく受け入れ、彼の住む場所を整えるために協力する村人たち。その懐の深さ、おおらかさ、温かさが観る者の心にじんわりと伝わってきます。"キリストさん"と村人たちの交流。"キリストさん"が、村人たちに語る場面が何度か描かれますが、そこで、彼が語る内容には、明らかに彼が書物から得た知識が盛り込まれています。そして、彼の話が、村人たちに影響を与えていきます。
村人たちは、彼の話に学び、様々に思考を巡らし、彼は、知識が現実の生活に何を与えられるかを知ったのでしょう。知識は、そこにあるだけでは、役に立ちませんが、人に考える道筋を示し、時に、心の余裕を与え、勇気を与え、希望を与えます。その時こそが、真理が真理として輝く時なのでしょう。
彼は、初めて、本当に書物から得られる知識の活かすことを学んだのかもしれません。だからこそ、彼は、書物こそが友だと言う司教に反論せずにいられなかったのかもしれません。
そして、人類が積み上げてきた知識や知恵といったものは、図書室で大切に保管されるべきものではなく、市井の人々に共有されるべきもの。地上に生きる人間のために磔にされた"イエス・キリスト"が、教会のものとされ、聖職者たちに独占されてしまったこと、貴重な書物が財産として図書室に保管されることへの批判が感じられます。
ラストの展開には、少々、疑問も残りました。大学の図書館の書物、それも、相当な財産であると思われる貴重な書物を破損した罪に対して、教授に与えられた罪が、意外に軽い気がしましたし、あまりにあっさりと自由になっている感じがして意外でしたが、これは、そんなものなのでしょうか?
村人たちが、困っていた問題が、何だかあっさりと簡単に解決された点も、少々、肩透かしを喰らった気分ではありました。
けれど、そんなものも含めて、人々の生活を包み込むポー川の風景、そして、ポー川に映る光の美しさが、心に沁みます。その輝きの中に、私たちは、答えを見つけることができるのか...。書物の中に答えが見つからないように、それも、叶わないことなのかも知れません。
それでも、ポー川の水が蛇行を繰り返しながらもいつか河口に辿り着くように、私たちも真理に辿り着く瞬間があるのかもしれません。時には氾濫し人々の暮らしを脅かすこともあるけれど、生命の維持になくてはならない水を運び、食料も与えてくれる川。そこにも、人々を支える力があるのです。書物や宗教の教義と同様、川も、誰かに占有されて良いものではない...ということなのでしょう。
何かを自分のものにしよう、独占しよう、それによって力を得よう...そうした邪心が、他人を苦しめ、自分自身をも縛ってしまうのかもしれません。
聖書やキリスト教についての基本的な知識がないと分かりにくい部分もあるかもしれませんが、ポー川を中心とした美しい風景と川面に映し出される光の見事さを眺めながら作品の世界に身を委ねる時、心の中に何か生まれてくるものがあるのは確かだと思います。
岩波ホールでの単館上映ですので、なかなか観る機会を持てない人も多いと思いますが、多少遠出となったとしても、観ておいて損はない作品だと思います。

感想6

人に慕われ、女性にモテて、おいしい食事やおしゃべりが好きな“キリストさん”。彼の行く先は、登場人物にも観客にも分からないが、キリストさんを迎えるために人々が灯した明かりの美しさは鮮明に記憶に残る。その光に希望を見出すことができれば、それだけで、キリストの寓話を込めたこの静謐な物語に触れた価値がある。


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